2009年7月9日木曜日

7/9 Today 森鷗外が「石見人森林太郎トシテ」死ぬ(1922)

森鷗外 - Wikipedia: "森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)- 大正11年(1922年)7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、戯曲家、陸軍軍医、官僚(高等官一等)。陸軍軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京帝国大学医学部 卒業。"


藩医の嫡男として、幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待されることになった。1872年(明治5年)、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、1872年10月に私塾の進文学社に入った。ドイツ人学者にドイツ語で反論して打ち負かすほど、語学に堪能であった。著作でドイツ語やフランス語などを多用しており、また中国古典からの引用も少なくない。なお、西洋語学を習得する秘訣として、作品内で語源を学習に役立てる逸話を記した。

鷗外の天才の秘密は四書五経にあることが分かる。思考方法の確立とは抽象的言語体系の修得に他ならないから(たとえ母国語であれ)外国語として言語を習得するほうが理にかなっているのである。「感じたまま自分の言葉で」なぞと言っているようでは「国語」は修得できない。語源が分かれば術語は分かるというのも卓見。

明治社会で一大出世をした鷗外だったが、死に際しては次のような遺言を残している:
7/9 Today 森鴎外没(1922)……「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ」: "余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリココニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官権威力ト雖、此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス、余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、宮内省陸軍皆縁故アレトモ生死別ル、瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス、森林太郎トシテ死セントス、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス、書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス

大正11年7月6日

森 林 太 郎 言
賀 古 鶴 所 書"

根っからの個人主義者であった。

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